花垣の歴史
花垣の歴史
その昔、初めて出来上がったお酒のふくよかで華やかな味わいは、まるで満開の桜並木のようだと評判になった。爛漫と咲き誇る桜の様子は花の垣根に例えられ、この酒は「花垣」と命名された。
江戸時代
1733(享保18)年 | 初代・七右衛門(しちえもん)が、大野・七間にて創業。 その頃は茶の木屋(ちゃのきや)といい、大野藩の御用商人、金物を扱う大店であった。 |
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時代背景
七間通りは、呉服商や薬舖、質屋、味噌・醤油の醸造関係の店などでにぎわい、とりわけ酒屋が立ち並び「酒座(さかざ)」 をなしていた。このころ、大野では数十軒の造り酒屋があり市街はもちろん、郊外の各村々に酒屋が点在し隆盛を誇っていた。
明治時代
1901(明治34)年 | 大野市街の度重なる大火を経て、金物商から酒造業へ業種転換し、酒造りを営み始める。 試験醸造を繰り返していく中で、出来上がったお酒はふくよか且つ華やかで、その味わいはまるで満開の桜並木のようだと評判になった。 爛漫と咲き誇る桜の様子は花の垣根に例えられ、この酒は「花垣」と命名された。人の心を喜ばせ、見て目を楽しませ、希望にあふれる縁起の良い言葉である。 |
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大正時代~昭和時代
1919(大正8)年 | 全国の酒造場数が1万蔵に。 7代目・修三が全国各地の名醸地を訪ね、酒造技術の習得に務め、品評会で高成績を残した。 |
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1931(昭和6)年 | 全国の酒造場数が1万蔵から8千蔵に減少。 |
1940(昭和15)年 | 新酒税法制定。造石税より庫出税となる。 |
第二次大戦後 | 戦中の苦難の酒造りを乗り越え、8代目・忠生が2千石余の酒造りを復興した。奥越前をはじめ、福井県の嶺北地区・岐阜県北部を販売地域とし『花垣』の銘柄で出荷し、余力の一部を灘・伏見の酒蔵へと移出した。 |
1950(昭和25)年 | 茶の木屋を南部酒造場に法人に改組。有限会社南部酒造場設立。 |
1963(昭和38)年 | 鉄筋コンクリート造り嘉宝蔵竣工。 |
1987(昭和62)年 | 南部隆保取締役社長に就任。 |
時代背景
過去の腐蔵、戦争による統制、経済競争などの末、ここ大野の地には4蔵を残すまでとなった。
現在
1982(昭和57)年 | 現当主・9代目の隆保が家業を継ぎ、伝統や手造りを重んじた酒造りを重視し、なお且つ近代化に専念した。創業以来、諸白に挑戦し、引き続けられた吟醸造りをここに開花させる。 |
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現在 | 酒造り120年を迎え、技術の研賛、人材の育成、伝統文化の伝承に余念がない。 平成28年、10代目の拓也が家業に従事する。 平成29年、有限会社から商号変更し、株式会社南部酒造場へ。 令和3年、座敷の床下から江戸時代の井戸が見つかり、改修整備する。 |